ジャパンアウトドアリーダーズアワード|Japan Outdoor leaders Award

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インタビュー

川嶋直

川嶋直

「指さされるような人になろうと思ったのです」

僕が通っていた高校1年の10月に中間テストが突然中止になって…上級生と、教員とで、いざこざがあったみたいで、それから3か月授業がなかったんです。学生運動の真っただ中でした。それで、2年の春に代表委員会の議長になっていました。

その時に、このままいくとちょっとやばいかもと考えました。つまり、自分の意志で動いていないような感じになってしまったんです。

家族と相談したら、兄が立教大学にいて、こんなのあるぞといいってもってきたのがKEEP(清泉寮)のパンフレットだったんです。真っ青な空、遠くに高い山があって、赤い三角屋根の建物に、白い牧柵があって、緑の牧草が写ってる素敵なパンフレットで、ああ、ここ行くと決めました。兄と一緒に行って、そのあと、数日泊まっていたのですが、お金が無くなりまして、支配人にここで働かせてくれとお願いして、5月から8月いっぱいまでいた。それ以降休みのたんびに、KEEPに来て、自然の中で働く若者たちと一緒にいろんなこと…ペンキ塗りから馬小屋の世話から皿洗いからベットメイクからいろんなことやらせてもらいました。寝る所と食事はいただいたボランティアでした。

このころに夏休みなると、全国から大学生からが、ここにやって来ました。学生運動が少し下火になったこところではありましたが。色々な大学生がいて、当時は何でも粉砕ですからね。清泉寮粉砕!KEEP粉砕!

(KEEP粉砕したらみんなここにいられないんだよ~)と思ったりしてました。

同じ年頃のキープで働いている若者たちと仲良くなっていましたので、なんか、「何でも粉砕」って言っている学生を見ていると、自分の姿を見ているような気がして、防弾ガラスのこっちから、自分は安全地帯にいて、ベトナム戦争はよくないとか、成田空港はよくないとか、言っている自分が見えてきた。インチキだなと感じた。防弾ガラスのこっちから、あれいけない、これいけないと指さすだけの自分が見えて、人を指さすようなことしてはいけないと思った。

人から指さされるような、川嶋のしていることはなんだ、あれはちょっといいかもとか、あんなのだめだとか、指さされるような存在にならないとだめだと、その夏に思った。それが17歳の夏だった。

現場に行って、あるいは自分で現場を作って何か形になるものを作らないといけない。評論家みたいにこんなこと言っているはインチキだと思ったんですね。

 

「人との出会いが人生を変える~就職~」

大学出て2年間は東京の友達のコーヒー屋さんで働いていて、その間、図書館行ったり自然保護団体たずねたりしていました。自分なりの就活ですね。英語の学校にも行っていました。

ある時コーヒー屋さんのカウンターに常連だった平凡社の百科事典の編集者がきて、『川嶋君がやりたいことっていうのは、君がいつも行っている清里でできるんじゃないかい?』と言われたんです。灯台下暗しでした。

なんとなく『自然の中で学びの場を作りたい』ということが、ボーイスカウトの経験と、自然の中でまなばせてもらったという経験と、当時、公害問題がすごくて、公害が発生する社会構造はまずいなと思っていたことと、そうした社会課題を解決したいていうのと、自然の中で暮らしたいというのが一緒になって、東京から離れたところで働きたいと思っていた。その時(1980年頃)はまだ自然学校という言葉はなくて、『自然の中での学びの場』みたいなもの作りたいという手紙をKEEPの役員に書きました。

面接に行くという日の朝にコーヒー屋に電話がかかってきて、面接来なくていいといわれた。何でと言ったら、ポールラッシュが亡くなったから。1979年の12月12日でした。

当然面接などできる状況ではないですから、びっくりしてそして悔しかったです。なまいきだけど、ポールさんに何年かかるかわからないけど、私の仕事見てもらいたいと思ってた。高校の時から、元気なポールさんを知っていましたからね。すごい悔しかった。

結局、面接受けて、4月からいらっしゃいということになった。でもそれは、学びの場を作るとかではなくて、人が足りないから、何となくわかっているだろうからということで、呼ばれた。大学の時も来ていましたしね。仕事は、清泉寮のフロントデスクに配属されて、客室の掃除や、お客様迎え入れたりしていた。でも、ずっと、「自然の中での学びの場」を考えながら仕事していました。

「ずっと赤字事業でした。」

当時キープの専務理事だった茅野さんという方が、日本野鳥の会と僕がいろいろ一生懸命やっているのを横目で見ていて、両財団で覚書みたいの取り交わして、正式にちゃんとやるということにしましょうと、話をまとめてくれた…そういう動きは僕は全然知らなかったんですね。…ある時、茅野専務に呼ばれて、川嶋君そういうことになったから、覚書の文案をすぐ書くようにって言われて、「え~」ってね。僕はびっくりしましたね。しっかり見てくれる人がいて、うれしかったですよね。

取り合えず覚書交わして、僕は一人で環境教育事業担当とかになるんです。環境教育事業部ができるのは90年か91年になってからです。それまで、2人になり3人になりと少しづつ大きくなって行ったんですね。

でも、環境教育事業はキープの中でずっと赤字事業だったんですね。

毎年赤字なんですね。最初の年の年間予算が300万ちょっとだったかな。それ僕の給料も入ってです。とにかく毎年毎年100万とか200万とか赤字なんです。でもね、事業規模は300,500,800万円と大きくなっていくんです、でも、いつも100万とか200万とか赤字なんです。

そこでも、僕らの仕事を見ていてくれた人がいたんです。環境省だったんですね。87年から、清里環境フォーラムを始めるにあたって、その準備を86年から始めるんですが、それも、環境省の当時の計画課長さんなんかと始めたし、1987年から始まった清里フォーラム(2年目から「清里環境教育フォーラム」)にも環境省の若い人たちもたくさん来てくれた。

そんなことで、環境省の人がここに目をつけてくれたんです。ボランティアで建てた50坪ぐらいのネイチャーセンターというのがあったのですが、環境省の方から『川嶋君あれよりもっと大きいの作って本格的にやろうよ、応援するから』ということになって、「山梨県立八ヶ岳自然ふれあいセンター」が1994年にオープンしました。その管理もキープ協会でやってくれということになりまして、運営費を山梨県からいただくようになって、それでようやく採算が取れるようになったんですね。

「人との出会いが人生を変える~都会にいても人には出会えない~」

清里ミーティングというのを思いついたのは…僕の発想ではないのです。

あるとき、当時60代ぐらいのご婦人がアメリカ人を二人連れてやってきたんですね。連れてきたのがナショナルジオグラフィックのカメラマンと編集者だったんです。日本の山を特集するということでね。

彼女は、当時日本山岳会の女性理事だったのかな? 登山家であり通訳だったんです。佐藤テルさんという人で。3~4日滞在されていたのかな。その間キープの中案内したりして。やたら気に入ってくれて、それで佐藤さんと仲良しになりました。

僕は82年ぐらいから、アメリカの国立公園とかによく行くようになって。それ以降毎年のように出かけていました。それである時、『今度、3月にアメリカに行くんですよ。』と、佐藤さんに話したんです。『(佐藤)どっちいくの?』『(川嶋)カリフォルニアとかです。』『(佐藤)ちょっと北の方に行ってワシントン州のシアトルに岡島っていうのがいるから会ってきなよ。ワシントン大学に行けば会えるから、私ちょっと連絡しとくよ』って言われて、会いに行ったんですよ。岡島さんはそれから2年アメリカにいたのかな。

それで、86年に戻って、キープに来てくれたんですよ。ここはいいところだな~と言って「ここで、日本の自然教育とかやっている人を集める年一回の集まりをやろうよ」と言うんです。「俺も環境省の人とかいろいろ連絡するから、君も知っている人連絡して、事務局長は君がやればいいよ」と。

それで、岡島さんは環境省の瀬田さんに連絡し、瀬田さんは自然保護協会の横山さん吉田さんに連絡し。僕は野鳥の会の小河原さんに話をし、信州大学の渡辺先生に話をしそれで初めの7人が集まったんですね。

当時はインターネットなんてないですから、住所書いて、切手はっていろんな人にご案内状出して、30人かな、40人かなって集まるのがと思っていましたら、90人以上も集まって大成功というかね。びっくりしましたね。

 

〜これからのリーダーへのメッセージ〜

それはもう、なんていうかな~
皆さんにとって僕のような仕事が楽しいかどうかは分からないけど、自分で試行錯誤しながら、いろんな人とぶつかりながら、あるいはちょっとずつ助けてもらいながらやっていくこと、そういうことが次の時代の役に立つかもと思ってきましたし、それが誰かを元気づけられることになったら良いと思ってきました。
僕らの後を追ったって、僕らと同じことやったって駄目でしょう。
そうじゃない、なんか新しい方法というというか、新しい行く先というか、なんかあると思う。それを、ともかく、探してほしいと強く思いますね。

(インタビュアー:桜井義維英)

 

川嶋 直(かわしま ただし)プロフィール

1953年東京都調布市生まれ。早稲田大学社会科学部卒。1980年山梨県清里、八ヶ岳の麓にある財団法人キープ協会に就職。1984年から環境教育事業を担当。インタープリターとして、自然の中での参加体験型の環境教育プログラムの開発・人材育成・イベントプロデュースなどを行なってきた。2010年にキープ協会役員を退任してからは、KP法(紙芝居プレゼンテーション法)を駆使した研修ファシリテーター、企業・行政・NPOの環境教育アドバイザーとして活動している。愛・地球博 森の自然学校・里の自然学校 統括プロデューサー(2004~2005年)。立教大学ESD研究センター運営委員・CSRチーム主幹(2007年~2012年)。「つなぐ人フォーラム」事務局長(2008年~現在)。平成20年度文部科学省社会教育功労者表彰受賞。

著書:「就職先は森の中~インタープリターという仕事」(1998年小学館)

「KP法〜シンプルに伝える紙芝居プレゼンテーション」(2013年みくに出版)

共著:「日本型環境教育の提案」(1992年小学館)

「野外教育入門」(2001年小学館)

「日本型環境教育の知恵」(2008年小学館)

「次世代CSRとESD~企業のためのサステナビリティ教育」(2011年ぎょうせい)

「森林NPO・ボランティア団体のための参加体験型森林環境教育活動・組織づくりガイドブック」

(2011年 公益社団法人国土緑化推進機構)

「ESD拠点としての自然学校~持続可能な社会づくりに果たす自然学校の役割」(2012年みくに出版)

「プロが教える実践ノウハウ 集合研修とOJTのつくり方」2014年 全国林業改良普及協会

監訳:「インタープリテーション入門」(1994年小学館)


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